茶道を想う

   一

 彼等は見たのである。何事よりも先づ見たのである。見得たのである。凡

ての不思議はこの泉から湧き出る。

 誰だとて物を見てはいる。だが凡ての者は同じようには見ない。それ故同

じ物を見ていない。ここで見方に深きものと浅きものとが生まれ、見られる

物も正しきものと誤れるものとに分かれる。見ても見誤れば見ないにも等し

い。誰も物を見るとは云う。だが真に物を見得る者がどれだけあろうか。そ

の少ない中に初期の茶人達が浮かぶ。彼等は見たのである。見得たのである。

見届けている故に彼等の見た物からは真理が光る。

 どう見たのか。ぢかに見たのである。「ぢかに」ということが他の見方と

は違う。ぢかに物が眼に映れば素晴らしいのである。大方の人は何かを通し

て眺めている。いつも眼と物との間に一物を入れる。或る者は思想を入れ、

或る者は嗜好を交え、或る者は習慣で眺める。それ等も一つの見方ではある。

だがぢかに見るのとはまるで違う。ぢかにとは眼と物との直接な交わりを云
  ジキゲ
う。直下に見ずば物そのものには触れ難い。優れた茶人達にはそれが出来た

のである。それが出来ればこそ茶人である。それ以外に真の茶人は無い。神

をぢかに見得る者を、始めて僧と呼びなしてよいのと同じである。茶人は眼

力の茶人である。


   二

 されば何をまともに見たのであるか。見る時何が見えたのであるか。内な

るものが映るのである。或はものの真体が見えると云ってもよい。あの哲学

者達が、「全き相」と呼びなしたものである。物の一部を見るのでなく、物

そのものを見るのである。全きものは部分の総和ではない。「加」と「全」

とは違う。全きものは分つことが出来ぬ。分つものが無い故に分けて見るこ

とが出来ぬ。それ故未だ分別を挟む時を有たない。ぢかに見るとは、考える
      イイ
より前に見る謂である。考えで見れば局部より見えはしない。見るより前に

知を差入れる者は、乏しい理解に止まって了う。見る力は知る力よりも多く

を識る。名だたる宗教書は云う、「信ずる前に知ろうと試みる者は、神への

全き理解を得ることが出来ぬ」と。美のことだとて同じである。見る前に知

を働かす者は、美への全き理解を得ることが出来ぬ。茶人達は何よりも先づ

見たのである。物そのものを直ちに見たのである。

 曇りが無くば眼の所業は速かである。見届ける故に迷いは無い。迷えば考

えて了う。考えが先立てば見る眼には濁りが来る。まともに見るとは明かに
              タメラ
見る意味である。明かに見れば躊躇いの暇はない。ここで見ることと信ずる

こととは同じ働きをする。信ずるのは明かに見えるからである。ものの真体

が映れば信念を誘う。ぢかに見る者は理解が迅速である。眼の業は時間を有

たない。それ故良し悪しの見極めは即刻である。惑いの無い者は大胆である。

だから見る者は見開く仕事をする。かくして茶人達の眼から物が様々に生れ

た。見ることと創ることとはここで一枚である。凡ての「大名物」は茶人達

の創作だと云える。もと誰が作った物であろうと、どこでいつ出来た物であ

ろうと、茶人達をこそ生みの親と呼んでよい。眼は物を遠慮なく創る。

 それ故茶祖は茶道で物を見たのではない。見たから茶道が起きたのである。

このことで如何に後世の茶人達とは違うであろう。茶道で物を眺めれば、即

にぢかに見るのとは違う。このことを多くの人々は気付かない。茶趣味に墜

ちた「茶」は「茶」ではない。物をまともに見ずば「茶」は基礎を失う。

「茶」はものをぢかに見よと常々教える。「茶」で見よと教えてはいない。

「茶」に囚われては却って「茶」を見失う。眼を清めずして、どこに「茶」

が保たれようか。


   三

 しかも見ただけではない。見ることで終わったのではない。只見ることだ

けでは見尽くしたとは云えぬ。彼等は進んで用いたのである。用いないわけ

に行かなかったのである。用いたが故に尚も見得たのである。用いずば見了

ることが無いとも云える。なぜならよく用いられる時ほど物の美しさが冴え

る時は無いからである。それ故用いることで彼等は尚も厚く美の密意に触れ

た。よく見たくば、よく用いねばならぬ。美を只眼で見、頭で考えるより、

進んで体で受けた。言い得るなら行いで見たと、そう云おう。「茶」は只の

鑑賞とは違う。生活で美を味わうのが真の「茶」である。眼先で見るだけで

は「茶」にならぬ。

 茶道は器を見る道であり、兼ねてまた用いる道である。誰でも日々器を用

いて暮らす。だが何を用いるかで分かれ、どう用いるかで更に別れて了う。

誰でも器物を用いるとはいうが、用いる物が様々であり、用い方が色々であ

る。用ふべき物を用いない者がある。用ふべからざる物を用いる者がある。

何を用いるかに心を寄せない者がある。どう用いても気にかけない者がある。

彼等を果たして用いる人と呼べるであろうか。物は選び方で右と左とに別れ、

用い方で更に活きもし殺されもする。用い誤れば用いないにも劣るであろう。

用い方は一つではない。四季の推移、朝夕の変化、部屋の結構、器物の性惰、

凡ては用い方に限りない創作を求める。人も器を待つ如く、器も用いる人を

待たねばならぬ。物を使うのは易しくとも、使い得る人が幾許あろうか。真

の茶人達は物を生活に取入れて使いこなした。見ることから用いることへ更

に道を深めた。生活で美を味わったことこそ、茶道の絶大な功徳である。


   四

 だが何を用いたのか。只使える物を使ったというのではない。今まで誰も

用いなかった物まで用いたのである。時としてはそれが何のために作られた

かをさえ知らなかったであろう。美しいが故に生活に取り入れたかったので

ある。ここで使い方が生れたのである。そうして使える物にして了ったので

ある。遂にはそれ以外に使う物は無いと思える所まで進めたのである。否、

それ以上の器は無いと考えられるまでに高めたのである。今日眺めれば全く

「茶」のために作られた品とより思えないではないか。だが器を創造し、用

い方を案出したのは茶人自からである。この創作なくして茶道は存在を得な

かったであろう。もともと茶器があったので茶器を使ったのではない。彼等

は美しいと感じた品を使いこなして了ったのである。かく使いこなされた器

が茶器なのである。

 もともと用い得ない品ならば、その美しさには何か病いがあろう。醜けれ

ば用に堪え難い。健やかな美しさは用いてくれといつも呼びかけてくる。使

はないでおくには余りに美しい。見る眼は用いる手を促さないわけにゆかぬ。

ここで「茶」が生れたのである。茶道が器物を招くというより、器物が茶道

を招いたのである。更に見る眼、用いる手が器物を茶器に育てたのである。

美しき器物なくば「茶」には育ち難い。茶器など何でも、茶道は成立つとい
                タ      カコ
う者がある。又茶器が無い故、茶が点てられないと喞つ者がある。何れも小

さな真理を述べているに過ぎない。器物を選ぶ眼なくして何処に「茶」が保

てるであろう。器を生み出す力なくして、どうして「茶」が栄えるであろう。

仮りに器があるとも用い得ずば、どうして茶礼が成立つであろう。

 茶祖の驚くべき業蹟は、器物に新たな歴史を興したことである。茶器があっ

たので見たのでもなく又用いたのでもない。彼等が見、又用いたが故に茶器

となったのである。彼等以前に茶器は無く、彼等以外に茶器は無かったので

ある。そうして彼等以後にどれだけの茶器が在り得たろうか。後世に「中興

名物」と呼んで名器に数える品があるが、如何に「大名物」に比べて見劣り

がするであろう。茶祖の前にそれ等のものを出しては恥ずかしいではないか。

それほど「大名物」には正しい美しさがある。

 だが心して想え、「大名物」の前半生は見捨てられた只の器物に過ぎない。

茶人の出現のみが彼等を又となく美しい茶器にしたのである。見る眼さえあ

れば、いつだって「大名物」はその数を増すであろう。この世に匿れた美し

い品物が無いわけがない。想えば茶祖が見た物は、ごく限られた一部に過ぎ

ない。恐らく残れる無数の物が吾々を待っているのである。只それ等不遇の

物を呼び寄せて、「大名物」に高めるほどの人が出なかっただけである。そ

うしてそれ等を使いこなす人がいなかっただけである。人を得ば茶祖の偉業

は一段と照り輝くであろう。


   五

 ではどう用いたのか。彼等の用い方は素晴らしかったのである。只うまく

用いたというようなことではない。又用い方をよく心得ていたというぐらい

のことでもない。用い方が法則にまで入ったのである。彼等が用いる如く用

いずば、用いていると云えないまでにして了ったのである。誰が彼等を措い

て彼等ほど深く物を用い得たであろう。物を正しく用いれば、誰でも彼等が

用いたその用い方に帰るのを見出すであろう。彼等の用い方は只彼等だけの

用い方ではない。用い方が彼等で型にまで高まったのである。個人を越えた

のである。法にまで徹したのである。物の見方や用い方を、法で示したこと

こそ、彼等の異常な功績と讃えてよい。
                   ハ
 それも型を考えて、「茶」をそれに当て嵌めたのではない。用ふべき場所

で、用ふべき器物を、用ふべき時に用いれば、自から法に帰ってゆく。一番

無駄の無い用い方に落ちつく時、それが一定の型に入るのである。型は謂わ

ば用い方の結晶した姿とも云える。煮つまる所まで煮つまった時、ものの精

髄に達するのである。それが型であり道である。用い方をここまで深めずば

未だ用い足りないのである。用い足りずば、全く用いているということは出

来ぬ。全く用いる時、人は自から法で用いているのである。「茶」の型は必

然であって考案ではない。法より自然なものがあるであろうか。

 それ故「茶」はどこまでも道である。道であるからには公である。則るべ
        ミダ
き法である。茶は猥りに個人的好悪を許さない。それは単に個人の嗜好に止

まるが如き小さなものではない。茶道は個人のことを越える。茶道の美しさ
             アラワ
は法の美しさである。個人を露に出す「茶」はよき「茶」とはならぬ。「茶」

は凡ての者に属する「茶」である。「茶」は個人の道ではなく人間の道であ

る。


   六

 されば茶礼という。礼は式であり範である。礼に到って「茶」も奥義に達

したのである。かかる礼式に高まってこそ茶道である。方式は吾々に遵奉を

求める。それだけの権威があっての茶礼である。学ぶ者はこの礼に忠順でな

ければならぬ。服従を人は拘束と解するかも知れぬ。しかし法に従うのは法
                           キママ
に則るのであって、このこと以外に全き自由はない。自由は気侭であっては

ならぬ。法に即してこそ全き自由が得られるのである。気侭より大きな拘束

があろうか。自己を言い張る時、人は不自由に迫られるであろう。茶礼は人

人に自由を贈る公道である。このことに凡ての伝統的芸道の密意がかかる。

型を去って能楽の美があり、歌舞伎の芸があろうか。如何に新しいものが生

まれるとも、それが深まる時、遂に型として納まるに至るであろう。「茶」

の美はその型に於いて最も深まる。「茶」を行う者には法への慎みがなけれ

ばならぬ。

 茶道の永い持続は一つにこの型の存在に依る。茶祖は逝き茶人は歴史に往
          トコシ
還するも、茶礼のみは永えに残る。それは個人を越えた力であって、時の流

れで消し去ることが出来ぬ。幾多の誤った茶人が後を継ぐとも、型は型であっ

て彼等に左右されない。若し「茶」が礼に達していなかったら、歴史は早く

も終わりを告げたであろう。個人に終わるものは生命が短い。

 だが今日残るのはその型であって人ではない。惜しい哉、その型を活かし

切る茶人がいない。残る型とても今は淡い影に近い。思い誤ってそれを乱し

がちなのを嘆じないわけにゆかぬ。型に滞って型の真意を知らないのである。

型を只外の形に解するより、「茶」を誤る者があろうか。型と形とは違う。

形のみを誇示する「茶」は、見て見苦しい。しばしば茶道は形式の芸として

非難される。それは型の意義を想い誤るからに過ぎない。型を死なしめるの

は人の罪であって、茶道の罪ではない。法より活きたものがあろうか。活き

たものであってこそ法に深まったのである。礼の密意を誤って「茶」を殺す

者が如何に多いであろう。型の真意が忘れられてから、既に幾歳月になるで

あろう。礼に即して自由を得られずば、未だ礼に徹した者ではない。形で

「茶」を玩ぶことは慎んでよい。型をゆめ浅く受取ってはならぬ。型に入っ

て「茶」が益々活かされねばならぬ。真の「茶」は型で愈々自由である。

 凡ての偉大なる芸術の仕事は法則の発見である。茶道は美の法則を語る驚

くべき道の一つである。


   七

 物を愛したのは彼等である。彼等がいたからこそ物に光が出たのである。

だが愛し方を彼等だけのものとして示したのではない。彼等が愛した物は、

いつ誰から何処で愛してもらってもよいことを意味している。彼等は片寄っ

た選び方をしたのではない。奇や癖を差入れているのではない。少しも個人

的の見方で見たのではなく、物をあるがままに眺めたのである。それ故彼等

の愛した物は普遍的に愛されてよい価値を有っている。物を真に愛する人が

あったら、必ず彼等の愛した物を一緒に愛する筈である。それ等の品物は誰

に向かっても、どこに置かれても、「見てくれないか」と話しかける。どん

な名器の側に置かれても、別に引け目はない。見る人が見れば、その美しさ

を最初に見届けてくれた彼等に懐かしさを覚えるであろう。心と心とが通う

からである。彼等が見たその器物で凡ての人は逢えるのである。逢う場所を

彼等が示してくれたのである。逢えなければ、過ちは人にあって器にあるの

ではない。まして彼等に誤りがあるのではない。彼等が愛した物を、凡ての

人は愛するようにされている。それは個人としての彼等が愛したのではなく、

凡ての人々を背負う彼等が愛したからである。彼等の愛は凡ての者の愛の縮

図である。真に愛すべき物があれば、実は彼等の愛で愛しているのである。

否、彼等が愛したその物を愛しつつあるに外ならない。それのみではない。

彼等が愛した物以上に又以外に愛すべき物が無いまでに感ずるであろう。仮

りに彼等が見ない美しい品があったとしても、彼等が愛した物と本質を同じ

くするのを見出すであろう。彼等の愛した物は、愛すべき凡ての物を代表す

る。物への愛が深まれば、結局彼等が愛した美しさに帰ってゆくのを悟るで

あろう。だから秀でた物に廻り逢えば、誰よりも彼等に見せたいと思うであ

ろう。美しい物に就いて語る時、実は彼等を語りつつあるのである。凡ての

美しい物は、いつも彼等に見られつつあるとも云える。凡ての眼は彼等の眼

に含まれている。だから彼等の愛した物は、凡ての人達の愛した物なのであ

る。彼等が選んだ茶器にはそれだけの魅力がある。彼等はそれ等の物で、美

しさの普遍な相を語った。


   八

 ここで彼等の眼は並々ならぬ仕事を果たした。恐らくどんな人々にも嘗て

為し得なかった業蹟を遺した。彼等は彼等の取り上げた器物で美の標準を人

々に贈った。茶道はこの贈物を弘めることに誠実な役割を勤めた。人々は美

しさという神秘なものを計量する簡単な物差を受けたのである。こんな驚く

べき贈物があろうか。しかもそれは誰にだって贈られたのである。誰に届け

ても間違いない確かな秤である。何も茶人だけが受けたのではない。丁度一

尺差がどんな人にでも使えるように、誰にだって使える物差である。それも

分り難い美を、分り易く測るためなのである。

 しかもその物差は何も込み入ったものではない。世にも簡単な物差である。

度盛に何が記してあるか。一語「渋い」という字が書いてある。只それだけ
                          スガタ
である。それで充分な働きをする。この世には様々な美の相があろう。可愛

いもの、強いもの、派手なもの、粋なもの、各々が美しさの一つである。性

情により環境により、人はその何れかに近づくであろう。だが情趣が進めば、
   タド
いつも辿り着くのは渋さの美である。この境に到り得て美は納まるのである。

美に深さを訪ねるなら、いつか此処に来るであろう。美の奥義を語る様々な

言葉はあっても、この一語に凡ては尽きる。茶人達は美の趣を、この一標語
 タク
に托したのである。 

 だから凡ての者は、物の美しさをこの言葉で判けばよい。是に照らして見
           ウカガ
れば、茶人達が見た物を窺うことが出来る。又彼等が見た見方を学ぶことが

出来る。自からに力は無くともこの言葉に助けられて美の性質を測ることが

出来る。是で測れば間違いが無いのである。どんな美が現れるともこの一語

に頼って判けばよい。人々を神秘な美の境に導く密法がここに含まれてある。

 幸なる哉、凡ての日本人はこの一語を知りぬいている。この貴重な言葉を

不断遣いにさえする。無学な者だとて平気で会話にこの言葉を入れる。しか

もこの言葉で自からの好みを省みることさえする。どんな派手好きの人でも

渋さの美が深いことはひそかに知っている。是こそは国民が有つ美の標語な

のである。どこの国に是に該当する言葉があろうか。言葉が無ければ観念を

欠き事実を欠こう。渋いという和語以外に、無上な美の標準を示す言葉は如

何なる国の辞彙にもない。それもむづかしい漢語の熟字で表現してあるので

はない。又抽象的な理知の言葉に托してあるのでもない。味覚から来た平易

極まりない「渋い」という言葉である。東洋の生活があってのみよくこの語

を生み得たと云えよう。

 芭蕉も「佗び」という言葉を遺した。俳道を知るほどの者は、誰もその意

を受け取っている。ここが文学の、又生活の標的である。だが誰にもそれを

解らせるのは困難である。目前に物で語るのではなく、形なき心で伝えるか

らである。だが「渋さ」は物で伝わる。形で見せられ、色で示され、模様で

出される。あの茶器に見られる簡素な形、静かな膚、くすめる色、飾りなき

姿、下根の者もこの語の心を活きた品々で受けとる。物に即して美を示した

ことこそ、茶道の忘れてはならなぬ長所である。それは遠い思想ではなく近

い現実である。心を物で語るのである。物が心を映すのである。「佗び」も

「渋さ」も一つではある。だが「佗び」は知者の用語に属し、「渋さ」は民

衆の言葉に交わる。この言葉あるがために、美を民衆に知らせ、民衆が美を
ササヤ
囁くとは、何たる幸なことであろうか。それも只の美ではない。渋さの美で

あり、終りの美である。美の帰趣である。この言葉こそ茶人達が凡ての人達

に贈ってくれた無比の遺産ではないか。凡ての日本人が最も深い美への標語

を有っている。こんな驚くべきことが又とあろうか。


   九

 選ばれた器は並々ならぬ器と思える。見れば見るほど美しいのは、何かそ

こに異常なものが潜むからである。整然と十個の見処さえ備わった完き器な
           タタ
のである。かく考えかく讃えて間違いはない。だが若し彼等が驚くべきもの

に驚いただけなら平凡とも云える。恐らく誰だとて出来ることであろうから。

だが彼等の眼はもっと正しかったのである。もっと健やかだったのである。

異常なものに異常な面影を見たというのではない。尋常なものに異常なもの

を見ぬいたのである。この功績をゆめ忘れてはならぬ。彼等は彼等の熱愛し

た器物を、貴重なもの、高価なもの、豪奢なもの、精緻なもの、異数なもの

から抽出して来たのではない。平易なもの、素直なもの、質素なもの、簡単

なもの、無事なものから取上げて来たのである。波瀾のない平常の世界に、

最も讃美すべき美を見つめたのである。平凡の中に非凡を見るより非凡なこ

とがあろうか。今の多くの人達は非凡なものにでなくば非凡を見ないほど平

凡に落ちたのである。初期の茶人達は尋常なものの深さを観じていたのであ

る。彼等は誰も顧みなかった通常の物から、異常な茶器を取立てたのである。

あの「大名物」の茶碗も茶入も、元は凡々たる民器に過ぎなかったではない

か。

 真理はいつも真近くに寄り添う。彼等を囲む周囲を、彼等は愛を以て振り

返った。日々の雑器こそ、彼等が眼を注いだ領域であった。誰も見棄ててか

かる品々である。大胆と云えば大胆である。だが是にも増した必然はない。

素朴な日常の器物は、彼等を裏切る如き不徳な者達ではない。質素な物は愛

を受ける。それ等の品々は無垢な心で生まれ、自然の恵みで育ったのである。

心も身も共々に健在である。用器のことであるから、病弱であったり華美で

あったりしては、奉仕の役を果たすことが出来ぬ。誠実こそ彼等の道徳では

ないか。かかる物から正しい美が輝くのに何の不思議があろうか。救いが誓

われている生涯である。謙遜な物は美と結縁が深い。あの「大名物」は嘗て

は貧しい雑器であった。その美しさは質素な性質から湧くのである。謙譲の

徳無き物はよき茶器にはなれぬ。茶道も清貧の教である。禍なる哉、贅沢な

る茶室、作為せる茶器、茶礼を乱す今の多くの茶人達。


   十

 ここで言葉を変えてこうも尋ねよう。そもそも茶祖は美しい数々の品を、

美のために出来た作物から選び挙げたろうか。決してそうではない。生活の

ために出来た器物が、彼等のこの上ない友達であった。彼等が「美」を観じ

たのは、遼遠な美に於いてではなく、現実に即した美に於いてである。考え

る美よりも交わる美に、もっと切実な愛を感じた。観念に於いてではなく生

活に於いて、更に深く美を見つめた。いわば美を遠きより近きへ移した。親

しさに美の本質を感じた。かくて美と生活とを固く一つに結んだ。鑑賞の歴

史に於いて、ここまで徹した例が他にあろうか。

 それ故今の吾々が工芸と呼ぶ領域が、彼等の心を惹いた世界である。美の

ために生れた美術よりも、生活のために生れた工芸に、彼等はもっと厚く美

を観じた。生活を離れて只美を愛したのでは決してない。最も深い美の相を

生活に即した品物の中に見つめた。是こそ彼等の洞察であり体験であった。

だから美しきものと工芸的なるものとは、彼等に於いて一つであった。この

領域を卑下して美術的なるもののみを重く見る美学者達と如何に異なるであ

ろう。それ等の者は好んで美を思想で味わう。だがここに止まるなら茶道は

ない。

 茶事は工芸的なるものに終始する。諸道具はもとよりである。書画の掛軸

といえども、表装との諧調である。それを工芸的なるものに為さずば用いは

しない。茶室こそは工芸品の綜和である。庭園の配置は工芸化せられた自然

である。点茶の動作、また工芸的な所作に外ならない。何れも用に発し生活

に根差した美しさである。言い得べくば「茶」は生活の模様化である。茶礼
 コンゼン                             タ
は渾然たる立体的紋様である。工芸的なるものを離れて「茶」はその道を樹

てない。美を工芸に現じ、工芸を美に観ずることに茶道の特性がある。この

ことを彼等を措いて誰が躊躇なく薦めたであろう。生活に美を即せしめるこ

となくして、彼等は美を語りはしなかったのである。かくして彼等は工芸に

美の永遠な位を贈った。茶道は工芸の美学である。


   十一

 だが茶道は見るこちに了るのではない。用いることに止まるのでもない。

況んや型に終わるのではない。それ等だけでも並々ならぬ要素である。だが

更に内へと迫る。究竟の所まで到らずば、もともと道ではない。道たるから

には、かりそめにも皮相のことではない。多くの者が茶を好む。だが殆ど凡

てが真の茶境に到り得ないのは道が深いからである。誰でも「茶」を行うと
                 アソ
いうわけにはゆかぬ。とかく「茶」は玩びに堕し易く、たかだか趣味に止まっ

て了う。少し進めばすぐ巧者に陥る。だが凡ゆる自負、気取、好事、技巧、

それ等と道と何の結縁があろうか。「茶」は今も盛んではあるが、道まで盛

んだとは云えぬ。振り返れば衰えた今日を嘆かないわけにゆかぬ。今は一人

の茶人も見当たらないとさえつくづく想える。道は心の深さに関わる。技の

至らぬ如き器の及ばぬ如き、未だ軽い罪とも云える。心の用意を整えずば、

凡てを誤るに等しい。心が深まらずば、「茶」は茶とはならぬ。「茶」であ

るとは云えぬ。

 「和敬清寂」は繰り返される標語である。だがこの標語は吾々に心の準備

を求める。準備は甚だ難いのである。精進を待たずして誰に易々と許される

であろう。茶道は物の教えから心の教えと高まる。心なくして物が活きるで

あろうか。よき物を有つことと、よき心を有つこととが一つになるまで深ま

らねばならぬ。物は心を呼ばずば未だ物たり難く、心は物を活かさずば未だ

心たり難い。美しき物が如何に多くあろうと、それだけでは茶器にならぬ。

凡ての物は心の現れにまで進まねばならぬ。心を忘れて誰か物のみを活かす

ことが出来よう。心が誠たらずば物も誠たることは出来ぬ。心と物と茶境に

於いては一如である。されど物を備える者は多く、心を整える者は少ない。
     マト
だが法衣を纒う者必ずしも僧とは言い難い。真の僧なればこそ始めて法衣を

纒えるのである。多くの人が「茶」を語る。だが幾許の人が茶僧たり得るで

あろう。「茶」は美の宗教である。宗教に入ってこそ茶道である。心の備え

無き者は茶境に入ることは出来ぬ。器を手にするは心を整えんがためではな

いか。心を清むるまでに物と交わらずば、未だ物を見、物を用いているとは
      モテアソ      ケガ
云えぬ。物を玩ぶだけでは物を涜しているとも云える。物を涜せば心をも涜

しているのである。心に濁りが残る故、物と清く交わり難いのだとも云えよ

う。誠の人を得ずば器も器とはならぬ。

 茶境は美の法境である。そこに流れるもろもろの法規は、宗教のそれと何

等変わる所がない。美と信と二つであろうとも、詮ずれば一如である。古来

茶道と禅道とは密かに結び合う。それにも増した至当はない。物を介して禅

を修するが茶道である。一個の茶碗、一個の花瓶、何れも皆絶好の公案であ

る。一木一石の配置、一句一行の義と何の変わりがあろうか。佗びた数奇屋、

また音なき禅堂のそれに等しい。諸々の茶礼、また日夜の清規と異なる所が

あろうか。美を体することと、信を修することとは一にして不二である。即

心即仏、物心一如、皆同じ真理への異なる言葉に過ぎない。仏の現前と美の

現前と、その厳かなるに於いて、温かきに於いて、澄めるに於いて、和らぎ

に於いて、何のけぢめがあろうか。禅僧と茶人と二人にして同心である。異

なるのは只外なる形に過ぎない。茶道に於いて美を修するは、究竟の境に住

まわんためである。和敬を体し、清寂に参ずるなれば、ゆめ心に濁りがあっ

てはならぬ。茶礼も所詮は修行の一路である。傲れる者、高ぶる者、富める

者、汚れる者、気取れる者、如何にそれ等凡ての者、美の法門に近づき難い

であろう。物を好む者は多く、心を修する者は少ない。だがそれでは茶道に

参ずることは出来ぬ。茶道は疑いも無い心道である。


   十二

 教は既に古い姿である。だがその精髄に何の古今があろうか。禅が古くし

て新しいのと同じである。累代弱まることなく人々を惹きつけたのは、何か

不朽の力が潜むからである。それを過ぎた形として棄て去る者がある。だが

形に沈むなら、それは運用の過ちであって、茶礼そのものの罪ではない。孔

孟の教えは古くとも、人倫の道はいつもそこに帰るであろう。汲み取る者が

あるなら、絶えず新しい泉である。茶道を形に死なしめるのは、茶人の罪で

あって、道そのものの誤りではない。そこに流れる美の法則は、人の前後を

待たず、時の左右を受けない。人は「茶」を棄てるとも、「茶」の法をまで

捨てることは出来ぬ。茶の道は美の法である。もし美に新しい形が現れるな

ら、そこに又新たな「茶」が生まれるであろう。形に新旧の二があろうとも、

美の法則に前後はない。「茶」は美の一つではなく、却って美の法である。

美を修し美に参ぜんとするほどの者は、茶道に徹せねばならぬ。美を修する

ことと、「茶」を修することとは別事ではない。別事である謂れがない。

 日本人の類いない美への教養は、多年茶道に訓練せられた賜物である。だ

が悲しくも美への眼力が衰えた昨今、茶礼の使命はいや増して大きいと思え

る。とりわけ美の王国をこの世に建てんと志すほどの者は、茶祖の偉業を想

いみないわけにゆかぬ。正しくその衣鉢を継いで、茶道の真面目を甦らすこ

とこそ、吾々に与えられた使命である。


                   (打ち込み人 K.TANT)

 【所載:『工芸』 第49,50,54号 昭和10年】
 (出典:新装・柳宗悦選集第6巻『茶と美』春秋社 初版1972年)

(EOF)
編集・制作<K.TANT> E-MAIL HFH02034@nifty.ne.jp